第9回奈良巡りの会「神職・文化人が住んだ高畑を散策」を開催
第9回奈良巡りの会「神職・文化人が住んだ高畑を散策」記録(開催日2024年5月25日)
奈良巡りの会も回を重ねて9回目ともなると、リピーターもさることながら、口コミによる婦人三田会のメンバーさんなど幅広い沢山の方々の参加(30名超)があり、大変賑やかな会となりました。
観光シーズンの奈良は交通渋滞で身動きが取れない記憶でしたが、奈良市西部はじめ平城宮跡(朱雀門広場)、奈良市役所に自家用駐車場を設けられ、また県庁前バスターミナルへ観光バスの誘導など、奈良公園への車渋滞を防ぐ特別な施策によりスムーズな流れの印象でした。
昨年はならまち界隈の街中(まちなか)の散策でしたが、今回は「神職・文化人が住んだ高畑を散策」をテーマに春日大社を集合場所として、”ささやきの小径”を通り、⇒志賀直哉旧居⇒不空院⇒昼食(お弁当)⇒新薬師寺と緑鮮やかな季節に自然を満喫、各所で特別の講義、説明を受け⇒現地解散後、周辺を自由散策しました。
[志賀直哉旧居]見学
北側の土塀(表門)から玄関より建物に上がり、長い廊下の突き当りは食堂とサンルームが広がっており、全員が一同に座って、先ず大原館長の説明を伺った。白樺派をはじめ多くの作家、写真家、芸術家との交友(談義、食事会など)はこの部屋で家族同様に迎えられ、高畑サロンと言われる由縁と思われます。
(大原館長の説明)
代表作品『暗夜行路』は相当長い制作期間を費やし、昭和12年(54)歳)この奈良の住まいで脱稿、翌年、東京市に移転した、との事。昭和46年(88歳)で天寿を全うするまで、無駄のない贅沢暮らしをしたと伝えられ、広大な屋敷、間取りはこの時代に、既製品ではなく、冷蔵庫やシンク(台所)、食堂ダイニングルーム、サンルーム、休憩用ソファまで”誂え”であったようです。
観察眼が鋭く作品にも滲みでているものの、「記念物を残さない」との遺言通り、実用とした愛用品は一切の展示がない、との説明に、より一層、建物の設えに興味をそそりました。
また、作品、作風にふれ、簡潔で力強い描写は、ヘミングウェイに似ているとの研究話題も披露されました。
(その後グルーブに分かれて建物、中庭など見学)
驚きは一言で表現できませんが、玄関より二階北東の部屋(来客用部屋)に上ると若草山(三笠山)と御蓋山(春日原始林)が一望できる眺望に感激。御蓋山は若草山に比べ低く、頂上が曖昧(手入れが難しい?原始林) 、今迄<これぞ御蓋山>とは中々見つけ難かったです。
※志賀直哉旧居(セミナーハウス)では奈良学園公開文化講座がほぼ毎月開催されています。
[真言律宗 南都・春日(しゅんにち)山 不空院]見学
春日山を背にする真言律宗の古刹、奈良国立博物館で開催の空海も「福井之大師」として足跡を残し、「女人救済の寺」としても知られています。
(三谷住職夫人の説明)
本尊の不空羂索観音はお身体に鹿皮の衣を纏っており、鹿皮観音とも言われ、春日大社並びに藤原氏との因縁が見て取れ、東大寺の三月堂、興福寺の南円堂、とで三不空羂索観音と言われています。戦乱や大地震により無住職の時代が続きましたが、大正時代に現在の本堂が再建され、寺域が整えられたようです。ならまち元林院芸妓の縁切、縁結のお話も印象的でした。
※ご厚意により、昼食会場のご提供を頂きました。
[華厳宗 日輪山 新薬師寺]見学
華厳宗本山、東大寺と縁が深く、聖武天皇の病気平癒を祈願して光明皇后によって春日山と高円山の麓に、新(あらたかな)薬師寺として創建されました。聖武天皇は動物植物ことごとく栄える世を目指し、廬舎那仏造立を発願され、後の東大寺創建に引き継がれます。
(中田住職の説明)
落雷や台風により多くの堂宇が焼失、倒壊、鎌倉時代に復興。
昭和59年、景清地蔵尊を修理の際、胎内から地蔵尊が発見され、玉のような地蔵さんとして先代住職が”おたま地蔵尊”との尊名を奉る。
尚、調査をした東京芸大の藪内佐斗司先生が、平城遷都1300年の折、マスコットキャラクター(せんとくん)を、顔が似ている”おたま地蔵尊”をモチーフにデザインされたらしい。
アカンサスの葉が薬師如来の光背にあり、寺庭ではアカンサスが綺麗に咲いていました。
因みに、西ノ京に薬師寺かありますが、この薬師寺は飛鳥から平城遷都で移転 したもので全く別の寺院です。
52法(政) 谷村 記